開拓塾初の校舎長試験。  

この制度を作った自分がうれしくて。(自分が勤めていた塾にはなかった。) 
ペーパーテストも燃えて作った。

講師としての本当の力を判断できるテストとはということだけを考え、作った。
(結果的には難しすぎるテストになってしまい、年々簡単になってきています。)  

校舎長試験の前々日かな。 母から電話があった。 
「おばあちゃんが、死んじゃった。」  
母のお母さんの死。  

「お葬式はいつ?」  
「あさってになると思う。」  
「ごめん。その日はいけれん。」  
「うん。全然いいよ。」 
電話の声は明るかった。  
うれしいわけがない。 
母の大切な人の死までも、無視してしまう
仕事ばかになってしまった、悲しい人間と思う人もいるだろう。  

母には聞く権利があるかもしれない。 
葬式に来れない理由を。
普通聞くだろう。
理由どころか、来ないということに対して、 
怒ったり、泣いたりする人が多いかもしれない。

「来れないような仕事なの?」
自分の社内の立場も考慮して、 

「なにがあるかわからないけど、1日くらいどうにかならないの?」  

人は理不尽なことがあったとき、とかく理由を聞きたがる。 
納得を欲しがる。  

そして、「どうして来れないんだ?」と聞く人は、自分の答えに納得するわけがない。

外部からすれば、校舎長試験なんて、所詮社内活動。 

社内活動で完結するものは、言ってしまえばすべて 遅延がOK。
まあ、どうにでもなるってこと。
(うちの会社は、そういう意味でまだまだ甘えがあって、
遅延が多すぎるのがかっこ悪い。意地がないのかなあ。)

理不尽なときこそ、一見聞く権利があるときこそ、 

「きっとなにかがある。」 そんな信じれる心。そんな過去。  
それが、究極の信頼関係だと思う。  

自分が生きてきて、母の偉大さを最も感じた瞬間だった。

自分はその電話口で、瞬間的に想像した。

自分が親の立場で、母が死んで、
息子が「仕事でいけれない。」 と言った。  

無理やり来させることも、怒ることもしない自信はある。 
しかし、理由を軽く聞いてしまうだろう。 
別に妙に納得したいから、なんてなくても。 
親子関係に甘えて、「通常の疑問」という会話の流れ
に身をまかせてしまうだろう。
しかし、それも結局は、納得を欲しがっているに過ぎない。  

母は強い意志だった。 
幼いころから、言っていた。

「竜馬のやりたいことをやればいいよ。お母さんはそれを応援する。」

その言葉に矛盾がなかった。 
幼いころの言葉が、4年前、とても重みのある言葉になった。

母は、僕がなんていうかなんかどうでもよかったのだろう。 
電話する前に答えは出ていた。

息子に報告をするというだけで 
「来てほしいもほしくないも、ない。」と言う答え。  

そうでなければ、「うん。全然いいよ。仕事がんばってね。」 
なんて、明るく言えるわけがない。  

もっと言えば、母は僕を産んだ瞬間から、 
親と子の関係が決まっていたのだろう。  

自分もまねをしたい。
でもできるかなあ、こんな強い生き方。 

でも、少しだけでも。  

「聞けるのに、聞きたいのに、聞かない。」と言う選択。

それが、信頼の証明。  

あの電話で本当に教わった。 

通常の仕事では、事実確定が重要な仕事のひとつであるので、
「徹底的に自分は聞く。」

 しかし、ここぞというときは、「聞かない。」 
すこしだけ、できるようになった。  

そんな中で、午前から、校長試験が始まった。 

もちろん、社員にはばあちゃんが死んだことなんか 言うわけがない。  

みんな、わくわく、どきどき。 テストを配った。 
みんな、生徒と変わらず、必死に問題を解いていた。 
一生懸命書きまくっていた。
頭を悩ませていた。 
消しゴムで消していた。  
試験監督として、その光景がとても愛おしく感じた。 

「こいつら、生きている。」
それを超えて、 

「こいつら、生き生きしている。」 
たまらんかった。  

不謹慎ながら、その場でばあちゃんの方角に向かって

冥福を祈った。「ありがとう。」 
ばあちゃんと母に「ごめんなさい。」  

そして、この子達の試験の様子を見て、 
遅延しなくてよかった。権利を使わなくてよかった。 

そう、改めて思わせてくれた社員がありがたかった。  

単なる社内活動の1日。  
この日のことは生涯忘れることはない。  

このひとには、「きっとなにかある。」 
こんなふうに思えれば、 人間関係が壊れることはない。  

たった1回、たった一言で、ともすれば、崩れてしまう あっけないもの。 
完全な人間なんて、この世にいるわけがないのに、
自分の都合で、不完全さを許容できなくなってしまう。  

「きっとなにかある。」 
理不尽なことをされてしまったときこそ、
その過去 に、怒ったり、悲しがったりしないで、  

「きっと何か理由がある。」 
そして、それを信じていれば、 
また、その人と「きっと、いいことがある。」  

そんなふうに思える、
思ってもらえれる人間 に少しでもなりたい。