日常の仕事の中で、はびこる「できない理由」の語り。
「○○だから、しかたない。」
「業者が○○と言ってたので、できないと思います。」
「時間がないので、無理だと思います。」
「クラスの状況が悪いので、・・・」
平然と、語ってるんだよね。
自分は、常に人が「できない」と言ったこと、思ったことを、
「できる」にかけてる、と言い切れる。
生徒指導だって、同じ。
そうやって、数々の成績上昇のきっかけを与えた。
毎日のようにあびせられる、「できない理由」。
それを「できる」に変えることを「挑戦」というのではないか。
ともすると、「情報」というやつは、できない理由のためのものになる。
なんのための、「情報」なんだ。
情報の主は誰なのか?これは重要。
誰にとっての、情報なのか。
ある人が言ってただけでしょ?
いくら、専門業者であろうと。
その人が、パーフェクトなんですか?
情報源は大切だ。
なおかつ、情報は、レベルの低い常識に似たようなものであることが多い。
常識的なことをやるために、仕事をするのであれば、
ちまたにあふれる情報は、ただの「できない理由」になるに決まっている。
普通の人ができないことをできるようにすることに、ひとつの意味を
感じて生きるのであれば、必然的行動が必要だ。
今まで誰もやっていないことをやるんだから、
たいていの情報は、ある意味、自分にとっては邪魔なんです。
ただできない理由が増えるだけの情報なんて、要らないんです。
「できる理由」、これに執着しない理由が、自分の人生にはない。
そして、また自分は先駆する。
名前のとおり、開拓し続ける。
それが、自分の人生。